川崎(じもと)の弁護士 伊藤諭 です。

大阪府の高校で,バスケット部キャプテンが顧問教諭に体罰を受け,これを苦に自殺したと見られる事件に関連する情報が日夜報道されております。

体罰に関する賛否が渦巻く中,日本の体育会の中心でトップを走っていた桑田真澄氏の意見が核心を突いていました。

「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ (朝日新聞デジタル) – Yahoo!ニュース

くだんの顧問教諭はこの意見を聞いてどう思うのでしょうか。是非反論を聞いてみたいものです。

ところで,離婚事件も扱う弁護士として,この体罰問題がいわゆるDV(ドメスティックバイオレンス。配偶者間暴力)問題と極めて類似しているという感想を持ちました。

加害者の視点

体罰もDVも通常強いものから弱いものに向けて行われます。桑田氏は「『絶対に仕返しをされない』という上下関係の構図で起きるのが体罰です。」と表現されております。まさに言い得て妙でしょう。DVの問題も,加害者が被害者を支配し,反撃されない(できない)という状況下においてよく見られます。

根深いのは,加害者がの側が「指導だ」「愛のムチだ」と自己の暴力を正当化していることです。しかもその多くが,本当に自分の暴力を正当なものと信じ込んでいるのです。

自分の信念ですから,他人が「止めろ」というのは,当人にとっては「信念を変えろ」と言われるに等しく,おそらく受け入れがたいことなのでしょう。

報道によれば同じ高校のバレーボール部の顧問もいちど体罰で停職になっているにもかかわらず,復職後まもなく体罰を再開したとのことでした。この顧問にとっては,「体罰」=「指導」なのですから。

加害者は,自分の暴力が「愛のムチ」として正当だと思ってますので,自分の思い通りの結果が生じると,アメを与えます。褒めるのはお手の物です。
また,暴力をふるった後にフォローをすることも忘れません。「愛のムチ」なのですから。これはオマエのために殴るのだと。

このように,「アメとムチの使い分け」で自分は指導がうまくいっている,つまりは自分の行為は正当なのだという評価になります。

被害者の視点

被害者の立場もDVと似ています。

加害者は何かと理由を付けて暴力をふるいます。(合理的かどうかはともかくとして)理由を付けて暴力をふるわれた被害者は,今度は殴られないよう加害者の意に沿った行動を取ろうとします。そうすると今度は加害者から褒められます。

これを繰り返すと,被害者のほうも,叱られるのは自分が悪いんだ,自分のことを思って殴ってくれたんだと信じるようになります。ここで加害者と被害者の思いが「一致」します。互いに暴力を肯定するようになりますので,行き着くところまで行かないと暴力が止まらないことになります。

また,殴って育った場合,成長したあとも,今の自分があるのは暴力のおかげと自分を肯定しようとします。
他の可能性(殴られないで育った場合どうなるか)の検証ができないことと,せっかく苦しい体験をしたのだから何か意味を持たせなければ浮かばれないという心裡ではないかと思います。桑田氏は「体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という後ろ向きな思考に陥ります。」と言っています。教育効果すら怪しいということでしょう。

さらに自分が逆の立場になると,自分が受けた行為を正しいものとしてさらに別の人にする場合があります。
体罰を受けて成長したと考えている人間が指導者になると自分も体罰するようになったり,子供の頃虐待を受けて育っていると,DV加害者になったりするケースがままあります。

今回の事件でも,一部の保護者から「僕らの頃はもっと厳しかった」として体罰を容認する意見が出ているとの報道がありましたが,まさにこの負の連鎖でしょう。 少し考えれば,自分が体罰を受けたことを理由に,体罰を正当化することができないことは明らかです。

問題点

このように,体罰もDVも加害者はおろか,場合によっては被害者ですらそれを肯定してしまう場合があり,気がついたときには取り返しのつかない大事になっている(それで初めて自分が被害者だと気づく)ことがままあります。

体罰を正当化したり,美化するような風潮は断じてやめてもらいたいと思います。

その点でも,桑田氏が発言するということは非常に意味のあることでしょう。H野監督と体罰問題で対談してもらいたいな。